ノルウェイの森 メモ

もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもその時は一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。すべてがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手を付ければいいのかがわからなかった。あまりにも克明な地図が、克明に過ぎて時として役にたたないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ___と僕は思う___文章という不完全な器に盛ることが出来るのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいで行けば行くほど、僕はより深く彼女を理解することが出来るようになったと思う。なぜ彼女が僕に向かって、「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

そう考えると、ぼくはたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

 ノルウェイの森 上 22.23pp

 

 

僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱き合ったり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目が覚めると隣に知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、 ベッドも照明もカーテンも何もかもがラブホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が目を覚まして、もそもそと下着を探し回る。そしてストッキングをはきながら「ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危ない日だったんだから」と言う。そして鏡に向かって頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつげをつけたりする。そういうのは僕は嫌だった。

 

上 73p

 

 

 

「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙に巻かれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみぬいて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後のほうは生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識といえば痛みと苦しみだけ」緑はマルボロをくわえて火をつけた。「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりとゆっくりと死の影が生命の領域を侵蝕して、気が付いたら薄暗くて何も見えなくなっていて、周りの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのっていやよ。絶対に耐えられないわ、私」

 

 

気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね。 

 

 

「『もう遅いの』って私はいったわ。『あの時に全部終わっちゃったのよ。一ヶ月待ってくれってあなたが行ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起こるわよ。そしてわたしはまた同じようなことを要求してあなたを苦しめることになるし、私もうそういうことしたくないのよ。』 そしてわたしたち離婚したわ。というか私のほうから無理に離婚したの。彼は二年前に再婚しちゃったけど、私今ではそれでよかったんだと思ってるわよ。本当よ。そのころには自分の一生がずっとこんな具合だろうってことがわかっていたし、そういうのにもう誰も巻き込みたくなかった。いつ頭のタガが外れるかってびくびくしながら暮らすような生活を誰にも押し付けたくなかったの。かれは私にとてもよくしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人だし、力強いし辛抱強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私をいやそうと精いっぱい努力したし、私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたんだとおもってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九%まで完璧にやってくれたのよ。でも一パーセントが、たったの一パーセントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。それで私たちの築き上げてきたものは一瞬にして崩れ去ってしまって、まったくのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね。」

 

下巻33p

 

 

直子は今頃どうしているだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすりと眠っているだろう。彼女がつらい夢をみることがないようにと僕は祈った。

 

下巻43p(直子のいる阿美寮から帰ってきた日曜日の夜、ベッドの中で) 

 

 

好きな人と会えない、好きな人から連絡が来ないといった、苛立ちにも似たような哀しさや淋しさで下巻は満ちているから、この辺にしたい。

体が空洞のようになって、音がただむなしく響いているだけの感覚をもたらす本。